日経ヘルスケァ 1994.12月号(P.10〜13)掲載
 


 高知市にある岡村病院は、外科系を主体とする病院ながら、老人の長期療養患者が 数多く入院し、付添看護を実施する病院だった。
 当時の院長の息子の岡村高雄氏が、同病院の心臓血管外科医長となったのは89年5月。その後しばらくしてから岡村氏は、いずれ自分が後を継ぐことになる病院の改革に乗り出した。
 父親から引き継いだ病院を、基準看護の急性期病院に変えることを目指した2代目院長の病院改革の道のりにスポットを当ててみた。       (文中敬称略)(橋本 宗明、写真=穴沢 誠)
・おかむら たかお
1951年高知市生まれ、77年順天堂大学医学部卒業、外科研修後、79年順天堂大学胸部外科入局。83年博士終了。東京医科歯科大学胸部外科医員、米国ミズーリ大学心臓胸部外科研究員、東京医科歯科大学胸部外科医局長兼講師を経て、89年岡村病院心臓血管外科医長。93年医療法人岡村会理事長兼院長。

「規模もスタッフの数も、やっている診療の内容もそれまで勤めていた大学病院とは何もかもが大きく異なっていた。中でも病院の運営方法や、患者層の違いには戸惑いさえ感じた」−。岡村高雄は、岡村病院にやって来た当時の印象をこう語る。


「昔風の暗いイメージの病院」


 人口対比の一般病床数が全国でずば抜けて多い高知県。その中でも特に病院が密集している高知市の中心部に医療法人岡村会・岡村病院はある。
 県医師会長、日本医師会理事などを歴任した父・一雄が、同病院の前身となる19床の有床診療所「岡村外科」を開設したのは1946年のことだ。戦後間もない当時は、まだ高知市内に医療機関は数えるほどしかなかったという。
 53年に病院化した後、消化器外科と伐採作業に起因する振動病の労災医療を主体とする病院として、80年には162床にまで規模を拡大する。しかし、その間に高知市内には数多くの民間病院が開設され、岡村病院の知名度は相対的に低下していった。それに伴い、入院・外来患者の大半を高齢者が占めるようになる。古い歴史を持つ外科系の病院ながら、いつの間にか長期療養の老人患者が数多く入院するようになっていた。
 89年5月に岡村が同病院に来たころ、そうした老人患者が入院の約4割に達していた。しかも、それらの患者を世話するため、院内には約30人の付添婦がいた。それの対して看護職員は30人程度。そのうち10人は准看学校に通う学生で、正看護婦は2,3人しかいなかった。
 一方、建物は老朽化が著しく進んでいた。昭和30年代に建築された旧館の病棟には冷暖房設備もなく、冬になると病室内にすきま風が吹き込んだ。トイレは男女共用で、患者からのクレームも多かった。院内の照明は暗く、ソファやベッドなども古びたものが置かれていた。
 当時を知る副院長の谷吉彦氏は、「昔風の暗いイメージの病院で、とにかく建物が今の時代に全くそぐわないものだった」とそのころを思い起こして言う。
 米国の留学経験を持ち、都内の大学病院に勤務してきた岡村が、いずれ自分が後を継ぐことになる病院を見て戸惑いを感じたのもうなずける話だ。



避けられなかった従来の運営方針との対立

 しかし、そうした病院のハードやソフトを見直そうとしても、事は簡単に運ばない。岡村が同病院の理事長兼院長に就任したのは93年9月に父親が死去した後で、それまでは父親が院長を務めていた。病院の体制を変更するには、院長である父親の運営方針を変える必要があるのだ。「父は『基準看護はいらない』、『看護婦は准看になった後、進学しないでいい』という考えを持っていた。病院を変えるには、父を説得するところから始めなければならず、その面での苦労も少なくなかった。」と岡村は振り返る。
 さらに、従来の運営方針を肯定するスタッフとの間で衝突もあったという。その後岡村が病院の改革を進めていく過程で、着任する以前から病院にいた職員の大半が病院を去り、今でも病院に残っているのは数えるばかりだ。
 病院を変えるには、こうした従来の方針に固執する人たちとの対立が避けられない。これは“2代目”の多くが乗り越えなければならない課題と言えよう。結局、岡村が病院を変革すための行動を実質的に開始したのは、病院に来て約1年半後の91年に入ってからだった。


HIを導入し病院の進む方向を見定める

 91年の初めに、岡村がまず取り掛かったのは、地域の中での病院の役割や力量、スタッフのやりたいことは何かを問い直すことだった。
 「いずれ建物を改築するにしても、例えば療養型の方向に進むならそれに見合った建物に改築しなければならず、その前にどういう方向に進むべきかを決める必要がある。一方、それまでは院長である父がすべての裁量を持って運営してきたため、職員は思ったことを自由に口に出せない雰囲気があった。病院を変えるには、職員がどういう気持ちでこの 病院で働いているのかを把握するところから始めなければならないと思った」と、岡村は説明する。
 そこで、同病院では91年初めからHI(ホスピタル・アイデンティティ:病院CI)を開始する。幹部職員と地元の有力者に対するヒアリング調査、全職員と患者に対するアンケート調 査を行い、病院が抱える問題点を洗い出した上で、その解決策や将来の進路を探るというものだ。
 この結果から、循環器と消化器の内科・外科、整形外科を主体とする急性期病院を目指す方針を打ち出した。ハードについては、老朽化が著しい旧館だけでなく、昭和50年代に建築された新館も含め、全面的にリニューアルすることを決めた。また、職員の意識改革を促す ためには、「チャレンジ3」という行動目標を定め、病院を挙げてサービス向上に取り組むことを求めた。ハード・ソフト両面にわたる病院の体質改革は、このようにして緒に就いた。


「急性期病院」が現実に向かう

 今年になって、岡村が進めてきた病院の改革は、目に見える形で実を結び始めている。
 まず、3月には工期19ヵ月にわたる全面リニューアルが完了した(本誌94年5月号「Healthcare Architecture」参照)。その前の2月末までに付添いを廃止。8月には基準看護(基本看護T)の承認を受け、10月からは新看護(看護3:1、看護補助5:1、B加算)に移行した。また、8月には薬剤管理指導(600点業務)の承認を受け、10月には週1回の選択メニューもスター トさせた。
 もちろん、こうした結果はそれなりの準備があってこそ達成できたものだ。例えば、基準 看護に移行するためには正看を増やす必要があったが、准看が大半を占める状態では正看の採用は困難だった。そこで、数年前から准看学校に通う学生の看護補助者に対し、資格取得 後は正看の学校へ進学するよう促してきた。その結果、今年4月にはかつての准看学生7人が 正看の資格を取って病院へ戻り、基準看護の取得が可能となった。
 また、付き添い廃止も、以前からその方針を示していたため、昨年末から短期間で実現している。「付き添いをなくして新しい病院を作らなければならないと前から言ってきたので、 看護婦の間に覚悟ができていたのだろう。また、看護部門から患者を減らしてくれと要望されれば、妥協できる範囲で患者を転院させるなどの協力をした。そのこともあって、付き添い廃止はスムーズにできた」(岡村)。
 リニューアルに伴い、医療設備や機器を導入・更新したことや、看護体制の変更などによって、岡村の目指す急性期病院の姿も現実のものとなりつつある。
 まず、付き添いの廃止の際に寝たきり患者の多くが他病院に転院したことで、平均在院日数は短縮した。整形外科、消化器、心臓外科の手術件数は6月ごろから増え始め、現在月15 例程度に達している。外来患者数も順調に増加し、「以前は40歳以上の患者が大半だったが、今は30歳までが20%と若年齢化している」(事務長の土方雅史)とのことだ。それに伴い経営も、「10月から新看護へ移行したことで何とか成り立つようになった」(岡村)という。
 ただし、病床数151床の民間病院が生き残る選択肢として「急性期」を選んだことが賢明と言えるのかどうか。今年の診療報酬改定によって、民間病院の間では療養型病床群や介護力強化病棟、あるいはケアミックスに移行する動きが強まっているのが実情だ。
 しかし岡村には「多くの病院が老人病棟や療養病棟に向かう中で、普通の患者はどこへ行けばいいのか」という問題意識がある。「急性期を選択したことが正解だったかどうかはわからないし、今後、急性期だけでやっていくのは厳しいかもしれないが、きっちりしたことをやっていれば、経営は成り立つはず」との確信は、そうした患者のための病院も必要だとの考えから生じたものに違いない。

「新たな目標を設定して質を高める」

 岡村が同病院に来て既に5年が経過した。91年に改革を開始してからでも丸4年になる。 「『こうした病院にしたい』と言い始めてから、ここまで来るのにはずいぶん時間がかかった」というのが、現在の岡村の正直な気持だ。
 ただ、これまでの5年間は岡村には「病院を変える」という大きな目標があった。91年にHIでまいた改革の種が実を結んだ後、岡村は果たしてどこに向かうのだろうか。「確かに一定の目標は達成しつつあるが、質の問題で言えばまだまだ高める必要がある。医療、看護、食 事、リハビリ、事務など、様々な部門で新たな目標を設定し、それを達成していかなければ ならない。やるべきことはまだまだいっぱいある」と、岡村は次なる改革に向けて意欲を見せる。“病院経営冬の時代”に2代目を引き継いだ院長ながら、その表情は病院経営を楽しんでいるかのようだ。