第45号抜粋

「以徳報怨」(徳を以て怨に報いる)
― 蒋介石総統の事を忘れないで ―
相談役  奥山 貫司

 私は1913年(大正2年)12月生まれで、昨年(2005年)12月満92歳になりました。激動の戦前・戦中・戦後を生かして頂いたことになります。
 今、この92年を振り返って見て、戦争の多い時代だったなぁという気がします。その中で特に心に残って忘れる事の出来ないのは、やはり自分が直接経験してきた日中戦争から太平洋戦争のことです。その中には是非、後の人に言い伝えておきたい事があります。
 私は戦争中、昭和19年初めから、徴用で長崎の三菱製鋼所へ行っていました。そして昭和20年の4月、召集が来て軍隊に入りました。
 今から思えば戦争中は大変でしたが、戦争に負けた後も大変でした。工場は破壊され、原料は枯渇し、生活物資は極度に逼迫していました。その上、敗戦の結果、朝鮮・台湾・樺太・千島などの領土を失い、残された四つの島へ、戦場から工場から召集や徴用で行っていた人達が次々と帰ってきました。しかも、終戦の年、昭和20年は大凶作でした。1000万人の餓死者が出ると言われました。
 その最悪の事態はアメリカなどの援助で辛うじて避けられたものの、家畜の飼料用のトウモロコシや大豆粕なども食料として配給になりました。それでも十分の量はなく、皆、庭でもどこでも空地という空地は耕して野菜を作ったり、休日になると手土産をもって、農家へ藷などを買出しに行かなければなりませんでした。
 私は戦争が終わって兵隊から帰った後、家族が長野県に疎開していましたので、一時長野県へ行きました。松本市の東の山の中にある村です。そこで秋から一冬を過ごしましたが、とても寒くて大変でしたので、家族を長野県に残したまま、友だちと二人で幡多郡の田舎で土地を借りて百姓をしました。家もありませんので、世話をしてくれた人の家の六畳の板間を借りて、友だちと二人で住んでいました。貸してくれた土地も、丘の斜面のやせた土地で、水も肥料もなく作るのも大変でした。配給はありましたが、量は少なく、ともかく食べるものに困りました。毎日殆ど藷ばかり食べていましたが、それも十分な量はなく、野草をとって来て食べたり、蛙や蛇をとって来て食べたりしました。そんな話をすると、私が特別苦労したように思われるかも知れませんが、その頃は日本中の人が皆、その様に食べるものがない、着る物がない、住む家もない、そういう中で、一生懸命働き生きのびて来たのです。
 そうして、日本は世界中の人達が驚く程早く復興し、昭和40年代〜50年代には世界の経済大国と言われる様になりました。それには確かに日本人の優秀さ、勤勉さ、そして国民こぞっての必死の努力があったと思います。しかしそれだけではありません。日本の敗戦後の復興を考える時、どうしても忘れてはならない人がいます。それは「蒋介石総統」、戦争の時の中国の最高責任者です。
 私が大阪で学校へ行っておりました時、昭和13年の4・5月頃だったと思います。ある日、中国でキリスト教の伝道をしておられる、アメリカ人の女の宣教師の方が学校へ来られました。学校にもアメリカ人の女の先生が2人おりましたので、知り合いだったと思います。休暇でアメリカへ帰る途中で寄られたという事でした。当時は今の様に飛行機ではなく、船で何十日もかかっておりましたので、途中で寄ったと思います。丁度、その前の年、昭和12年7月7日、日支事変(日中戦争)が起こって、昭和13年のその頃は日本の軍隊がどんどん中国へ送られ、戦争している最中でした。学生が皆、講堂へ集まりまして、その宣教師の先生の話を聞きました。話の内容は今覚えていませんが、話の後で質問の時、一人の学生が「先生は日支事変についてどうお思いになりますか」と言って聞きました。すると、その宣教師の先生は、少し考えておられましたが、「私はこの問題について答えたくありません。しかし、蒋介石総統は立派なクリスチャンです。」と言いました。私はそれを聞いた時、この宣教師の先生は日支事変について、日本にあまりよい感じを持っておられないな、と思いました。その頃、私共は「日本の軍隊が中国の各地で勇敢に戦って戦果をあげている」と言う事しか知らされていなかったのです。しかし、実際には戦争目的にも問題はありましたが、中国の各地で日本軍の残忍な事件が数々あったようです。その後、戦争は太平洋戦争へと拡がって行きました。そして、昭和20年8月15日、日本の敗戦となりました。
 戦争中、日本の軍隊が中国の人達に対して、随分ひどい事をして来た事は私共は後になって知らされました。盧溝橋事件から8年間も沢山の軍隊を送って戦争をしていたのですから、平時では考えられないような色々の事件があったと思います。
 戦後、三光という本が出版されました。これは日中戦争に参加して生き残った人達によって書かれたものと思います。三光とは殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす(殺光・槍光・焼光)という意味で、日中戦争の時の日本軍の行った作戦は、三光作戦と言われていました。私はその本を読んだ事はありませんが、その本を読んだ人の書いたものの中に次の様な記事があります。
 『この大東亜戦争に於いて、隣邦中国に対し、日本軍がどのように残酷なことをしたか、かつて、私は「三光」という本を読んだことがありますが、それはあまりにも凄惨でここに記すことが出来ません。忘れることが出来ぬ一つは、行進していた部隊の長がはるかにある一農家の上に小さな旗がひるがえっているのを見ると、「あの旗は何のしるしか」と聞きました。同伴していた通訳は「あれは、嫁さんが赤ん坊を生んだしるしで、お祝いの意味で立てているのです」と答えました。すると部隊長は直ちに命令を下し、全軍をして、彼の農家を包囲し、藁束をつんで放火し、家族もろ共焼き殺してしまいました。悲惨目を掩う出来事を書きつらねたこの「三光」という本は、後についに発売を禁止されてしまいました。しかし、発売を禁止して、日本軍や日本人が彼の地に於いてなしてきたことを抹殺できるのでしょうか、忘却することが出来るのでしょうか。
 戦争は人間の理性を失わしめ、良心をまひさせ、人間を野獣と化して憎ませ、争わせ、殺しあいをさせます。殺されるものは実に気の毒ですが、殺すものとて決して幸福ではありません。戦争は凡ての人を不幸のどん底に叩きおとしてしまいます。』
 戦争が終わった時、中国大陸には、軍官民合わせて205万人の日本人がいたと言われています。この人達はこれからどうなるか、皆、本当に不安で生きた心持はなかった様です。
 2003年8月23日の高知新聞夕刊の灯火(ひともし)という欄に作家の瀬戸内寂聴さんが、「私は敗戦を北京で迎えた。日本人は皆殺しにされるだろうと、その夜は一睡もできなかった」と書いています。
 恐らくその時、中国にいた日本人は皆そのような気持ちだったのではないでしょうか。特に中国人に対して残虐なことをして来た日本軍にどんな仕返しがされるだろうか、本当に不安な気持ちだったと思います。
 その時、蒋介石総統は奥さんの宋美麗夫人と共に祈って布告を出しました。そして中国全土、並びに全世界に向けてラジオで放送しました。布告文は長いので、私が要約したものを記します。

昭和20年8月14日(日本時間8月15日)蒋介石総統が布告した告文の要約
 『全中国の軍官民の皆さん並びに全世界の平和を愛する人達、我々の日本との戦いは本日ここに勝利を得た。正義は必ず独裁に勝つという真理は現実となった。暗黒と絶望の中で8年間奮闘して来た人達、並びに正義と平和の為に共に戦った友邦に深く感謝を捧げる。
 しかし、これは最終的な勝利ではない。私共はこの戦争が世界最後の戦争になる事を切望している。
 この度の戦争が人類史上最後の戦争となるのであったら、私共は言い表せない様な残虐と屈辱を受けたけれども、決してその賠償や戦果は問うまい。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」「あなたの敵を愛しなさい」と命じられた、キリストの教訓を思い出して誠に感慨無量である。中国の同胞よ、「既往をとがめず、徳を以って怨みに報いる」ことこそ中国文化の貴重な精神文化であると肝に銘じて欲しい。
 私共はただ侵略をこととする日本軍閥のみを敵とし、日本人民を敵としないと言ってきた。決して報復したり、侮辱を加えてはならない。敵の過去の暴行に対して暴行をもって仕返しをしていたら、怨みは怨みを呼んで、永遠に止まる所がない。之は我々の目的ではなく、一人一人が今日特に留意すべきところである。
 武力による平和は本当の平和ではない。世界の永遠の平和は、自由平等の精神と博愛にもとづく協力を基盤として築かれるものである。軍閥から誤った指導をうけて来た日本人が反省して、我々と同じ様に平和を愛する人間になり、世界の平和が達成するように切望する。』
という様な趣旨のものでした。こうして日本人は全員が無事に帰ることが出来ました。
 終戦当時、北支済南の日本人教会にいた向井芳男牧師夫人向井仙子さんの書かれたものがあります。
 『私は終戦当時、北支済南の日本人教会におりました。私の夫は向井芳男牧師、子供5人と姑の8人家族でした。天皇陛下の放送に続いて、蒋介石総統より「神は愛なり、汝の敵を愛せよ、日本人に危害を加え、物資を掠奪する者は死刑に処す」という放送をきき、どんなに励まされ、力づけられ、又、神に感謝をささげたことです。』
 恐らく全国でこういう経験をされた人は沢山あったと思います。
 そしてその後、中国は最大の被害国であったのにかかわらず、率先して賠償請求権を放棄しました。中国の損害は公の財産と私有財産の直接的損失で掌握出来たもの、略奪された銀行の財産、破壊された産業施設・交通施設など1937年(昭和12年)現在の米ドルで313億3013万6000ドルと言われています。同じ年の日本政府の一般会計歳出は7億7000万ドルと言うことです。
 全額をもって賠償に当てても、40年以上かかる計算になります。中国が受けた損害は本当に天文学的数字でした。もし、中国にまともに賠償を支払わなければならないとなったら、日本は50年たっても立ち上がれなかったかもしれません。最大の被害国であった中国が賠償請求権を放棄した為、他の連合国も賠償請求ができなかったと思います。
 それと、敗戦後の日本を分割して占領するという案が、ソ連から執拗に出されました。北海道をソ連・本州をアメリカ・四国をイギリス・九州を中国が夫々占領し、占領軍をおくるという案です。
 又、アメリカからも中国に対して占領軍を出したら、というすすめがありましたが、中国は占領軍を出しませんでした。それでアメリカだけが占領軍を出しました。もし、日本がドイツや朝鮮のように分割して占領されていたら、今頃、日本はどんなになっていただろうかと思わされます。
 戦後日本は、驚異的な復興をとげたと言われますが、敗戦後の日本を今日あらしめたのは蒋介石総統だという人もあります。確かに戦後の復興について蒋介石総統は忘れる事の出来ない人です。
 高知城の西側に城西公園という公園があります。私はあの近くに住んでいますのでたいてい毎日あの公園の中を通ります。あの公園に「日中不再戦」と書いた大きな石の碑が建っています。そのふちに「1992年9月18日高知県民之を建つ」と書いてあり、そのそばの別の石に説明が書いてありまして、それには「日本は日清戦争以来、中国に対し侵略行為を続け、特に1931年の満州事変後、15年間に及ぶ戦争は人道をおかす三光作戦などによって1千万人余の中国人民を殺傷した。この碑は日中国交回復20週年にあたり侵略戦争に対する反省の証として、またゆるぎない友好と平和の礎とするため建立された。」と書かれています。之は「高知県民之を建つ」と書いてあるだけで誰が建てたか、書いてありません。それで調べて見て分った事は、昭和12年7月盧溝橋事件が起こり、日中戦争がはじまってから30周年に当たる昭和42年の6月、高知市出身の大野武夫という人が呼びかけ人になって、日中不再戦運動というのが起こりました。この運動は県下に拡がりまして、200人以上の賛同者が出来ました。この頃はまだ日中戦争を経験した人が沢山いたわけです。
 はじめは藤並神社の境内に、日中不再戦と書いた檜の柱を建てたそうですが、もっと永久的な石の碑を建てようという事になって、1970年(昭和45年)碑の石を用意しましたが、建てる場所が決まらないまま、その翌年1971年に呼びかけ人の大野武夫さんが73歳で病気で亡くなりました。それで運動は一時停滞しましたが、その後、その志をついで日中不再戦の碑を建てる会というのが出来て1992年9月に之が建ったという事です。
 大野武夫さんは高知市出身で明治31年生まれ、社会事業家と言われています。戦後、高知県の政治・社会・教育・文化の面で幅広い活動をした人ですが、盧溝橋事件が起こった昭和12年の8月に中国に渡って事業を始め、戦争中ずっと中国にいて、第2次世界大戦が終結して、昭和21年5月に高知に引揚げて来た人です。日中戦争のはじめから終わりまで、戦争の現場である中国で戦争を体験して来られたわけです。勿論、その間に行った日本軍の行動も、蒋介石総統の「徳を以て怨に報いる」という布告も、身近に見聞し経験してこられたと思います。大野さんは沢山の書き物を残しておられますが、その中に「石にきざむ日中不再戦の誓い」という文章があります。
 その中に大野さんは、「われわれのこれから歩まなければならない道は反戦平和であり、これはあらゆる思考の原点である。さらに大事なもう一つは日中不再戦である。盧溝橋事件の30周年には一尺角のヒノキ材にそれを記したが、今年(1970年)はそれを石にきざんで不滅のものにする。それは中国人民に加えた暴虐に対する詫び状であるが、日本帝国主義への腹の底からの怒りの火文字ともなろう。」と書いています。
 日本人が戦争を通して中国の人に加えた暴虐、それに対して蒋介石総統が「敵を愛しなさい。」「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」という聖書の言葉に従い、また「既往をとがめず徳を以て怨みに報いることこそ中国文化の貴重な精神文化である。」と言って、いくら憎んでも余りあると思われる日本人を赦し、親切に扱った愛の行為、それがこの碑を建てさせたのだと思います。ここにこそ本当の平和があります。
 中国との戦争が終わった時、もし日本が中国からひどい仕返しを受け、また、第一次世界大戦のときのドイツのように立ち上がれない様な多額の賠償金を課せられていたら、恐らくこの様な碑は建たなかったと思います。戦争をなくするのは武力や圧力でなくて敵を愛する思いやりの心です。
 「敵を愛する」、言葉では言えますが実際問題になると仲々難しい事です。殊に一国の責任者が国の利害に大きく影響のあることを決断するのには深い信仰と大変な勇気の要ることだったと思います。また中国の国民がそれを文句も言わずに素直に聞いたと言うことも大した事でした。恐らく蒋介石総統の側からも非常な努力がなされた事と思います。
 敗戦の時、相手の国中国に敬虔なキリスト教徒で、しかも若い時、日本に留学していて、日本の事をよく知っており、日本人にも知己をもつ総統がおられたという事は、日本にとって本当にしあわせでした。その事を決して忘れてはなりません。しかし現在の日本では蒋介石総統の事は、殆ど忘れられようとしています。また日中不再戦の碑の事も知っている人は極く少数です。日中戦争の事もあまり知られていないのが現状です。
 先頃の中国での反日デモ、本当に心が痛みました。その後も日中関係は正常ではありません。その原因は何なのでしょうか、謙虚に反省する必要があります。決して傲慢になってはなりません。傲慢は孤立を招き、滅亡につながります。或るアメリカの指導者の方が、「日本人の欠点は自分が何を知らないかを知らない。」と言っていました。大事なのは相手の立場に立って物を考える能力をもつこと、そして謙遜。中国とはいつまでも仲よく助け合って共に世界の平和に貢献して行きたいと思います。その為に努力しましょう。
 「以徳報怨」